言葉が持つ呪いにとらわれず生きたい

言葉は呪いを持つ。

 

趙の武霊王は紀元前310年、野台に立ち中山と斉を「望んだ」とある。

望むとは呪いを込めて見るということだそうだ(宮城谷昌光楽毅』より)

すなわち攻め取るということだ。

 

時に僕は自分の望んだ自分になろうとする余り自分自身の言葉にがんじがらめになって動けなくなることがある。たとえば「アメリカでプログラマとして職を得るにはコンピュータサイエンスのマスターの学位が必要だ」といった思い込みだ。これは僕自身に対する呪いとなっている。

これは実際に自分がかつてビザの問題で就職に頓挫しその時色々調べた結果、これが最も確度の高い方法らしいと学んだ結果なのであるが、現役高校生ではあるまいし、冷静に考えると僕がこの方法に執着するのはまったく馬鹿馬鹿しいのである。

見渡すと、学位などなくても右腕一本でこちらの会社に乗り込んで行って職を得ている人などゴマンといる。僕もそうすれば良いのだ。

 

ここまでは僕の話で、ここからは僕自身が放った言葉の呪いが思いがけず他人を縛るかも知れないということ。特に若い人がたまたまアメリカでプログラマとしてやっていきたいという夢を持っていて、たまたま僕のエントリを読んで「あゝ自分は文学部卒だから所詮叶わぬ夢…」などと思わせてしまったら遣る瀬ない。そんなことを思う必要はない。学位を持たぬおじさんの学歴コンプ爆発と鼻で笑って自分の夢を追いかけて欲しい。その呪いを断ち切るためにこのエントリを書いた。エーンガチョ!これで君も僕も自由である。

 

ところで冒頭の武霊王は胡服騎射と言って、かつての中国における貴族的な戦車による戦いから、戦士が直接騎馬に乗って戦場を蹂躙するという"野蛮な北方民族"の戦術を採り入れて趙を一大大国に押し上げた。

僕も学位はなくとも10年の実務経験があるのだ。胡服騎射して攻め入るのみ!

 

本当はビザ面接、ソーシャルセキュリティーナンバーの取得から免許の取得までをエントリにまとめようと思ったのにカリフォルニア州の運転免許試験に落ちたので訳の分からんエントリになってしまった…じゃあの。