父、帰国

家族みんなで日本に帰って来ました。3月末付で現職の米国ラボから離れ、誠に勝手ながらそのまま退職する道を選びました。

改めて経緯を整理すると、最大の理由は家族(特に長女)の環境に対する拒絶感が想像より大きく、親として完全にサポートしてやることができませんでした。様々な不運が重なり、娘としては最悪の米国体験となってしまいました。これはたったひとつのサンプルであり、これをもって米国の何たるかを語るつもりはサラサラありません。他の皆さんの米国進出の妨げとならないことを願いつつ、こういうこともあるのだという体験のシェアはしておこうかなと思います。

我々はBurlingameというサンフランシスコ半島の中ほどにある美しい街に住みました。ここはこの辺りではかなり珍しく、白人比率が高くアジア人が少ない特異な街でした。娘のクラスも、アジア系は娘ともうひとりだけ1でした。人種としてマイノリティというのみならず、言葉が満足ではない子供が娘だけという環境下で彼女の絶望と苦労は想像を絶するものがあったと思います。申し訳ないことです。また、先生も本人のコメントによると教師になって2年目ということで、どう好意的にみようとしてもトラブル因子である娘をかなり邪険に扱っていました。これは最後までとても悔しかったです。

先生同士の引き継ぎが不十分で娘がひとりだけお弁当を食べられなかったり、他の子のイタズラのぬれぎぬを着せられたり、クラス内のパーティで娘にだけおやつが配られなかったりと、信じられないような扱いを受けました。怒り、悲しみ、混乱しました。親としてもツライですが、生まれて初めてこんなアンフェアな扱いを受けた娘を思うと夜も眠れなかったです。よく娘と抱き合って泣きながらベッドに入りました。校長も交えて話し合いも試みたのですが、結局のところ校長先生は「担任を信じたい」という立ち位置で、担任は「誤解や勘違い」というスタンスを崩さず、あまつさえ「証拠がない」とまで言い放つ始末で大きく失望しました。

単身赴任ではなく家族みんなで帰国という選択はこれまた極端にすぎると思われる向きもあるかもしれませんが、我が家ではこの点は一貫しています。つまり、パパと離れては暮らせないという長女の意見を常に尊重しました。
結局の所、米国に来たのも「パパと離れ離れになるぐらいなら嫌だけど米国に来る」というものでしたし、日本に帰るにあたっても「パパと離れて私だけは帰らない」という意見でした。このまま居たら娘の精神はどうにかなってしまいそうでしたし、こう言ってはなんですが、女の子が「パパと居たい」と言ってくれるのなんて、せいぜいあと5年でしょう。それならばパパも日本に帰るよということに決めました。

子どもたちは日本で心安く過ごしています。3月も終わり、妻も子どももそして僕も新しい生活が始まります。これからもどうかご指導ください。それでは近い内にまたどこかで。じゃあの。


  1. この子は台湾系アメリカ人の2世なので、人種としてはアジア人というだけで完全なアメリカ人