心のローパスフィルタ

地殻を毛細血管のごとく駆け巡る光ファイバが空間の垣根を取り去った結果、四半世紀前なら触れることすらなかった情報に晒されるようになった。 これは幸福でも不幸でもある。

観測する限り、多くの人は自分の置かれている環境の平均値で構成されている。朱に交われば赤くなるというやつだ。 これは環境のお陰で自分が周りのレベルまで引き上げられる例も、自分自身がいわば浸透圧の合った塩分濃度に自然と落ち着く例もあるだろう。 とにかく、環境から著しく外れた存在に触れるには周囲の人間を何ホップもしなければならなかった。

ところがインターネットが魔界の界峡トンネルのように突然1ホップで次元の違う人々に出会うことを可能にしてしまった。その結果、ブラウザ越しの玄関先にはS級妖怪がゴロゴロ歩いている。テクノロジーの進化はいつも喜ばしい。問題はこれにどう向き合うかだ。

ある種の人間にとって―まあこれは僕のことなのだが―半径30m以内にいる*ように見える*人たちは、自分が到達すべき平均目標に見えてしまうことがある。こうなると不幸だ。本来は界峡トンネルを越えないと出会うことすらできなかった文字通り次元の違う存在が当然にできることを、僕はどうして努力してもなお達成できないのだろうと思い悩むことになる。立っている土台も、越えてきた屍の数も、これから対峙する課題のスケール感も違うにも関わらずだ。

結局の所、昔からお母さんに言われる「他所はよそ、家はうち」に行き着く。どこかで心のローパスフィルタで余りにも高い理想をカットしないと自分の足元もおぼつかない。インターネットは簡単に他人の人生を摂取することができ、それはアルコールのようなエンターテインメント性と常習性をもたらすが、あくまで他人の物語だ。慎ましくも愛らしい自分の人生を、諦めるのではなく、前向きに受け入れなければならない。自分の他に自分の人生の面倒を見てくれる人はいないのだから。そんなことを考えていた。