基礎教養というのは人生の打率を上げるためのものかも知らん

なまじあり物のライブラリやなんかを組み合わせてそれなりのソフトウェアが作れてしまうし、10年もやってりゃそれなりに哲学のあるコード(良いコードとは言ってない)が書けるようになったので、ともすれば自分をいっぱしのシニアエンジニアだと勘違いしてしまうときがある。

 

ただそういったものがないフィールドで戦う必要が出たとして、僕は急に戦うすべを持たなくなってしまう。

たとえば難関大学の数学や物理を出たソフトウェア技術者が周りにゴロゴロいるわけだけど、こと2010年代後半のAndroidアプリ開発フレームワークより上のレイヤ)に限っていえば僕もそれなりに彼らと比肩できる自負があるが、彼らはこの世から急にAndroidが消えても次の何かにジャンプしてまた活躍する基礎がある。僕はそれが非常に恐怖だし羨ましい。

 

とかく自分は低レイヤに信仰にも似た崇拝感情をもっており、お釈迦様の手の上で楽しく踊っているとつい「この下はどうやって出来てるんだ」と不安を覚えてしまう。そして下に掘っていけば行くほどむき身の数学と対峙する必要がある。

 

ただこれは無意味な前提である。Androidは今日突然なくなりはしないし、低レイヤを突き詰めるとしてじゃあどこまでおりて行くんだ?半導体に電気ながしゃ気が済むんか?ということになるし、若干ノイローゼ気味なのかも知れない。

 

で、思うに、基礎教養っつーのは人生の打率を上げる以上の意味はないのかも知らんなぁというのが最近の気付きだ。

基礎教養はあるに超したことはない。そんなもんは僕だって分かりきっているが、さりとて高校のときにサボって10年寝かしちまったもんはもうしょうがないわけで、いまたまたま「上のレイヤ」でメシが食えてるんならそれでまあ良いじゃないと思うのが身の丈に合った幸せってもんなのかなぁと。

 

で、これも思うに、じゃあ基礎教養のないまま諦めるかっつーとこれはまあ僕の過去のエントリを見てもらうとお分かりのとおり僕は非常~~~に諦めの悪いおとこで、いまもチマチマやっとるわけである。ある日突然ハシゴが外されたときに僕も生き残る打率を上げたいんよ。

 

最後にツイートにも書いたけど僕はマジで普段エラそうに「技術者の待遇をあげよ!」とか喚いてるわりに高校数学もおぼつかない有様なんだけど、その僕が移動時間や夜眠れないときの睡眠薬に使ってる数学の参考サイトがこれである。

 

 

 

これほど素晴らしいコンテンツが原初インターネットから存在しているのはこの世の救いである。なんとかして御本人にお礼を伝えたい。僕は数学が苦手だが数学が好きな生徒(34歳)です。ありがとう。